1 二口に広がる磐司磐三郎伝説

 磐司磐三郎にまつわる伝説は、秋保と山寺を両端にした二口山塊を最大の舞台として古くから語り継がれている。その片鱗は栃木県より以北奥羽山脈沿い、秋田岩手にまたがる山村集落にもおよび、各地でさまざまな諸説がまとめられている。 何れの説もおおむね共通しているのは、東北山岳民俗の首長として伝説の舞台に登場し古代東北人の英雄として、或いは山神として語り継がれていることにある。 以下は二口山塊の伝説を中心に、磐司磐三郎(兄弟)という人物を浮き彫りにし、生きた時代を想定するものである。

1.1 生い立ち (秋保二口磐次郎磐三郎説)
 その昔小東峠を越えて大行沢添い杣道を下ってくる二人の旅姿の女があった。その一人は主で連れの女は乳母のように見受けられた。しばらく下り東山(大東岳)から流れてくる渓流(京淵沢)に出会ったので喉をうるおし、休息をしていたところ突然姫が激しい腹痛を訴えた。乳母は薬を求めて来た道を引き返し、聚落(集落)へ向かった。残された姫は悶え苦しんでいたが、ふと見ると異様な怪人がそばにいた。姫は殺されるものと観念し、失神した。
磐司磐三郎伝説最大の聖地 磐司岩

 時しばらくして乳母が戻ったときに姫の姿はなく、呼べど探せどどこにもいない。にわかに孤独と別離の悔恨に平常心を失い、フラフラと滝(梯子滝)に身を投げてしまったという。 
 一方失神した姫が再び目を覚ますと木の葉を敷いた洞窟(裏磐司千人洞と伝う)にいることがわかった。不思議なことに腹痛はすっかり癒えていた。空腹を覚えてあたりを見回すとあの怪人が近ずいてくる。驚きのあまり逃れようとしたが、外には猿がいて中を覗いていた。決心して怪人の方をこわごわと見ると、その怪人は全身を白銀で被われた大猿である。 しかし危害を加える様子もなく大きな手に木の実を盛って食べろと差し出していた。恐る恐るその一つを食べてみると何とも言えない甘酸っぱい美味しさである。 それから姫は群猿にかしずかれて大猿との奇妙な山窟の生活が始まり、やがて二人の間に生まれたのが磐次郎磐三郎の兄弟である。共に山野渓谷を身軽に飛歩き、のち山神に祀られた。
1.2 慈覚大師との出合い(秋保二口磐次郎磐三郎説)
湯元洞窟堂 塩滝不動尊が祀られている

 仏教の伝導のため奥羽を行脚していた慈覚大師は、名取御湯のほとりの磊々峡の岩山の粛々さに惚れ、ここに精舎(洞窟堂)を開き村人を導こうとしたが、時の領主は仏を好まず何かと嫌がらせを繰り返し危害を加えるので、仕方な洞窟堂く活動を断念、新天地を求め羽州へ赴こうと名取川沿いを逆上ったという。途中秋保大滝の壮観と森厳さに心を打たれ、暫しここに足を留めて不動尊を安置した。(秋保大滝不動尊の起源という。)
 さらに名取川沿いに歩き、西磐神の渡し(風の洞橋か磐司橋?)を越えて次第に二口峠に近ずいていた時・・・
 突然木陰から二人の異様な風貌の山男が現れた。「俺たちはこの山の主、磐次郎磐三郎という兄弟だ。着ているものをすっぽり置いてゆけ。」と大師につけより腰の山刀で脅した。脅された慈覚大師はひるむことなくスラスラと法衣を脱ぎ、ついには裸一つになったという。

しかも・・・ 大師は穏やかに笑みを浮かべ
「お前たちは愚僧から何もかも盗ったと思っているが、わしにはこれでもなお高価なものを持っておるのだ。・・・・・ 何だかわかるまい?」

洞窟堂一帯を構成する磊々峡の奇岩群


風の堂橋から磐司岩を望む

兄弟にはどう考ええても分からない。
教えてくれと頼むと
「ならわしにも頼みがある。・・・ お前たちの悪業これからは一切しないと約束できたら語ろう。」と大師。
 山刀を振りかざした二人は顔を見合せ暫しためらった磐司橋が、ついにはしびれを切らし
「よかろう!語れ」といった。
「ん。お前たちはわしを裸にし何もかも盗ったと思っていたろうが、わしの心ばかりは盗れなかったろう。・・・ どうじゃ・ 他人の心を盗るには、常々善い行いをしなければ盗れるものではない。これは最も難しく、最も誉れ高く尊い事なのじゃ・・・わかるか・・・ 云々」

慈覚大師に諄ケと諭されやがて改心悟した兄弟は、持っていた弓矢を捨て、ついには慈覚に教えを乞い善人になったという。
 表磐司にも裏磐司にも百人ほど入れる岩屋(岩窟)があって磐次郎磐三郎の住家と伝えられ、後にマタギたちが入ってみると中に衣のようなものがあったという。
 その後兄弟に案内され縄張りである今の山寺へ行くと慈覚大師円仁は、その山容を見渡すと汗でぬれた衣を乾かすほんのわずかな場所を借りようと磐司に乞い願ったという。承諾を得た大師が衣をさっと石か木に掛けるとたちまち衣が広がり、山寺しいては二口面白山など全山を覆いつくしたという。
 さらに円仁は、後に土地借用について兄弟に証文を書き渡した。はじめ十年の約束で承諾した磐司だったが、「十」の上に「ノ」という墨をこぼすという大師の巧みな筆使いにより、借用期間は千年になったと伝わる。

1.3鬼屋敷の鬼退治と石ケ森逆さ竹(秋保二口・・磐次郎・磐三郎説)
 いつの頃からか長袋(並木)に悪者が住み、旅人を屋敷に泊めては殺生し、財貨をかす めては人々を苦しめていたという。(鬼屋敷と呼ばれる場所がそれである) その頃、既に慈覚大師円仁に説法を受け、善人に立ち返った磐次磐三郎兄弟がそれを聞 き、鬼屋敷の鬼を追い払う。 磐三郎は磐司岩(磐神岩)の頂上から長袋鬼屋敷の鬼(悪者)をめがけ、「ヒョウ!」 と弓を射ったという。 しかし、弓は飛行途中の石ケ森の岩肌をかすめたため、わずかに鬼屋敷の手前で失速目 的は果たせなかった。しかし、鬼(悪者)は磐三郎兄弟の武勇に恐れをなし、どこへとも なく逃げ去ったという。
 この時・・
 失速して地中深く突き刺さった矢の後にはや がて根が生え、ついには一塊の竹藪となったと 伝わる。(この竹藪は現存し「磐次磐三郎の逆 さ竹」と呼ばれている。 秋保神社の祭典で流鏑馬が奉納されていた頃さかさ竹 にはこの竹を用いて矢を作る習わしになってい た。また、むやみに徐伐をすると疾病や不幸を 招くとも言われている。)

長袋の野中にある逆さ竹