1.4 山寺と磐司磐三郎(円仁との対面)・・(山寺百話・山寺立石寺千手院考)
 山寺の伝説では普通の人間で狩猟民であっとされている。磐司磐三郎は猿王(日光の猿麻呂)の子で、初め奥州名取川の渓谷(二口谷)で狩りをしていたが、のちに山寺に移り今の千手院に住んだ。
 山寺千手院の入り口に一つ石というところがあって、いまもこんこんと清水が沸きだしている。磐司磐三郎が矢を研いだ所だとされ矢研清水(矢研清水池)という。この清水の上に磐司が弓をかけた松があった。別に笠松とも言われた。
山寺 対面石

 矢研清水の近くに突出する立ち岩があり、クマ狩りに際してはこの岩に祀る山の神の御祓いをうけ、祈祷して山立ちしたという。

 千手院部落の端に磐司の愛犬(マリという名対面石)の墓であるという石碑がある。また、その先にマリ山という所がある。この名称は磐司の犬を起因としている。
 犬の碑と山寺山王神社との間が、磐司磐三郎が住んだ磐司屋敷跡と伝えられている。

 慈覚大師円仁が二口峠を越え、羽州への行脚の途中、今の山寺で地元の狩猟民の首領磐司磐三郎と対面したのが「対面石」である。 
 磐司磐三郎が居するそこは、岩壁の迫り合う険しさは前人未踏の聖地にふさわしく、深山の幽玄な山容を成していた。岩の根を巡る清冽な川の響き、南面の陽をうけて迫り来る畏怖の感をもつ岸壁の山の偉容に、円仁は心の奥深く天立石寺台仏教の東北本山にしようと決意、この神秘的な川の流れと山容の奇景を対面石上より仰ぎ、山寺霊域開山の夢を賭けたという。
 対面石のところで面会し談合した二人は、互いに語り合うなかで共に下野(栃木県)の同郷人であることがわかり、もって大師の志と仏教の徳に感銘を受け、慈覚大師の開山に全力を尽くして助力したため、のちに地主権現として祀られた。
 磐司磐三郎は晩年、山寺が宗教活動の聖地となると狩猟の生業が成り立たないため後に秋田に移住したと語り継がれている。
 五大堂のそばにある磐司祠

 磐司磐三郎の祠は五大堂の岩窟にある。

 高さ一尺三寸の木彫りの座像が安置されている。もと狩人であったということで傍らに石造磐司祠りの犬がおいてある。(現在、磐司磐三郎の座像は風化を避けるため、根本中堂脇の秘宝館に収められている。)

 磐司磐三郎が慈覚大師の徳を受け動物の殺生をやめたことにともない、喜んだ動物たちが磐司に感謝してシシ踊りを踊ったというシシ踊りの伝説がある。毎年8月には磐司祠を主祭にシシ踊りを奉納するという「磐司祭」が行われている。

1.5 山寺千手院地区に伝わる磐司磐三郎の墓
 磐司磐三郎の屋敷があったといわれる千手院地区に前述の磐司愛犬の墓のほかに、なんと磐三郎本人の「墓」がある。
 標書きには、父は藤原良継(馬王)の一子で猿丸太夫で、母は香取明神磐比主命の子孫である山姫。
 磐司磐三郎は775年生母の郷に生まれ、830年円仁に流域を譲渡し、立石寺開山に支援、847年に千手院に没すとある。
 風雪に絶えたと思われるその碑は、劣化のあとのみを残し、らしい風格を備えている。
 ・・・墓を建立するという文化は中世以降である。しかも時代の重要人物がそのはじまりとされ・・・
しかし、はっきりと磐司磐三郎の墓だという。(因みに墓があるという記録等にはめぐり会えなかった。再調査の余地あり)

1.6 山寺の民話(磐司・万三郎の兄弟) ・・・ 日本民話と伝説
 磐司と万三郎は兄弟で、栃木県日光山麓に生まれ、北関東から奥羽山脈一円の山々を駆けめぐり、狩猟生活(マタギ)をつづけながら二口峠(磐司岩)に住みついたという。
 弟の万三郎は狩りの名人で、狙った獲物は逃がさないといった凄腕であったが、兄の磐司は鷹揚ではあったが狩り下手だったという。

 ある夜、磐司の小屋に苦しげな身重の女が訪ねてきて一晩の宿を乞うてきた。磐司は快く女を小屋に入れ親切に介抱してやった。聞けば彼女は、先に万三郎の小屋を訪ねたのだが厳しく断られたという。磐司は狩の名人である万三郎がマタギの掟を遵守したのは当然であると感じつつ、自分の行った行為もまた然るべきという寛容さもよしと考えていた。
 翌朝無事出産を済ませた彼女は、お礼に獲物がたくさん捕れるという呪文(山に入る時に「磐司磐司磐司」と3回唱える)を磐司に授け、自らを山の神と名のりどこへともなく立ち去ったという。磐司はそれからというもの多くの獲物に恵まれ、一方の万三郎は逆に獲れなくなったという。

 この頃比叡山延暦寺の僧慈覚大師円仁が、諸国行脚の途中山深い奥羽の地に布教をしようと二口峠(磐司岩)を旅する。大師は奇岩がそそり立つ壮観な景色(現山寺)に心を引かれるとともに、ここに精舎を開こうと土地の事実上の主である磐司と面会、布教活動の許しと土地の借用を願った。磐司は大師の功徳と説法に感動、弟万三郎とともに殺生の所業を止め、その教化に従いながら立石寺開山に全面的に協力したと伝わる。
 立石寺には、地主として円仁に協力した磐司の人徳を祀った「磐司祠」と「磐司像」がある。

1.7 日本伝説人物辞典(磐司磐三郎 ばんじばんざぶろう)
 狩猟伝承にみられる狩人の名。
 この名をもつ二人、または磐司が姓という一人の狩人でまたぎの祖先という。磐次磐三郎とも書き万治磐三郎ともいう。
仙台市西方奥羽山脈を越える二口峠に磐司岩という巨岩が対立した場所があり、ここが磐司磐三郎の住処であったと伝え、また山形立石寺の山中を狩場としたともいう。
・・・この伝承は、もと次郎・三郎と呼ばれる二人の狩人が、一方は山の神を援助してその礼に獲物を授けられ、他方はそれを断って山の幸を失ったという運勢の優劣を説明する神話の大系からくるものであったと思われる。
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